もろもろ帖

好き勝手

僕はなんて言えばいいんだろう

今、音楽を聴いてしびれた。けれどもそれをあらわす適切なことばがわからない。分析すればするほど靄がかかってくる。描写すればするほど嘘くさくなってくる。

感情はことばのかたちをしているのではない。ことばとして表出するだけだ。感情をことばに起こすのは、他人なりもうひとりの自分なり未来の自分なり、それを受け取ってくれる人がいるという前提があってこそなのだ。今ここで、自分ひとりで完結するならことばはいらない。

ことばは、やり取りのための道具だ。物理的に、わたしの感情をそのままあなたに渡すことはできない。そこでわたしは、あなたとわたしの中で同じ意味を持つと思われることばを出力する。あなたは自分の脳みその中から、受け取ったことばに釣り合うと思われる在庫を取り出す。こうやってわたしとあなたは共有する。

この感情にこのことばを当てはめるのは不釣り合いではないか、と片方が思えば、食い違いは起こる。ことばはお金なのだ。このモノにこの値段を当てはめるのは不釣り合いではないか、と片方が思えば、売買は成立しない。モノの価値はすべてが値段に表れるわけではない。いくらきめ細かく鋭いことばだとしても、それに当てはめることでこぼれてしまう部分は確かに存在する。おおざっぱなことばに頼れば不純物は多くなるが、取りこぼす心配はないだろう。ことばを紡ぐことの技術は単純に語彙の多さだけではなく、その人の世界での法則やことば自体の組み立てかたに依存するところも大きそうである。

澱みを含むところまでがこの気持ちだと思って、今はただおおざっぱに「かっこよかった」としか言えない自分は無力だ。

ヌードデッサンにまつわるエトセトラ

生まれて初めてヌードデッサンをしたのですが、はっきり言ってものすごく良かった。

部屋に入ると、そこは暖房でモワモワであった。モデルのお姉さんたちはすでに身にまとっているものがガウンだのローブだの布1枚だったりするので暖めておかねばならない。わたしが描かせていただいた方は身体に巻いた大きな布を一箇所結ぶだけで簡易的ドレスにしていて、そういう慣れにプロらしさを感じた。

そんなわけでモデルさんたちもお仕事なので、躊躇なんてものはない。開始の合図で潔くハラリと布を捨ててポーズをとる。だから気まずくならないんだろう。エロいんだけどいやらしくない。いやらしさは恥じらいから生まれるのかもしれない。

エロかった。この エロい ということばは 美しい とほぼ同義である。人体ってすごく綺麗だ。昨日まではヌードモデルといったら額縁の中の裸婦のような人を想像していた。失礼かもしれないけれど、今日のモデルさんはそういう方ではなかった。小柄で、程よくお肉がついていて、思っていたほど若くはなかったし。ただ、それがとにかく美しかったのだ。人間本来の美しさというか……自然が定めたままの姿というか……しかも、キュッと結んだように完成されたポーズを何パターンも提示してくれる。それがまたエロい。能楽の型みたいなものがあるのだろうか。

こんにちエロスっていうことばは性の意味で使われがちだけど、エロスとタナトス、のときは生きることを全てひっくるめた意味じゃなかったっけ。プロなだけあってちっとも動かないモデルさんのお腹だけが呼吸に合わせてかすかに動いていて、それが今日いちばんエロいと思ったところだった。

ひたすら描いて、描いて、描くこと6時間(くらい)。最終的には怒涛の1分1ポーズ10連発なんかもやった。ランナーズハイとおそらく同じメカニズムのすがすがしさ。少しは巧くなったといいな。終わりぎわに先生が「今日デッサンしている間、この部屋の中にはいろいろな人がいたのに誰ひとり悲しんだり怒ったり泣いたりギクシャクしなかったでしょ。」と言った。何かを思い知った。

カレンダーのように大きな今日の作品を苦労しながら持ち帰ってきた。おそらくわたしがあのお姉さんに会うことは二度とないだろうけれど、お姉さんはあきらかに紙の中に「いる」。黒鉛の粉末でできたお姉さんが紙の上に息づいている。ただ紙はバカでかいし、ヌードデッサンをやってきたなんてとうとう家族には言えなかったので、今ものすごく紙上のお姉さんの置き場所に困っている。